ドロボーが奪えないもの
オレがある公益法人の役員をやっていたときの話。忘年会をかねた理事会が箱根の旅館で開かれた。十数名の理事が集まった。ほとんどが男性だ。
理事会が終わったあとの懇親会の席で、ひとりずつ近況報告などを始めた。そのとき、ひとりの女性理事が、会場に来る途中でスリに遭い、サイフをそっくり盗られたという話をした。一瞬、みんなシーンとなった。十数万円が入っていたというから、たいへんなことだ。
でも、その女性は平然とこう言った。「いいんです。盗んだ人は、そのお金を生み出すことはできないけど、私にはそれを稼ぎ出すことができますから」と。
うーん、すごい!そのとおり。悔し紛れや強がりであっても、なかなか言えないことばだ。オレにとっては一生忘れられないことばになった。
確かにスリは彼女の稼いだ金を盗んだけど、彼女の稼ぐ能力そのものを盗むわけにはいかなかった。スリは、その金をすぐに使い果たし、また犯行を重ねなければならないだろう。
獲物が大きければ大きいほど、それに味をしめた犯人は、スリ商売から抜け出せなくなる。スリは常習犯が多いから、捕まるごとに刑期が延びていく。結局、彼は刑務所の中で生涯を終えるに違いない。ドロボーは、カネを盗んだ瞬間から、罪と罰を背負っていくわけだ。
カネは水に似ている。カネを生み出す力のない人が、一時的に大金をつかんでも、その金は手のひらの水のようにこぼれ落ちていく。常に水を吸い上げるか、それを活用していくポンプをそなえた人でなければ、カネは意味を持たない。ためておくだけでは、どんどん漏れ落ちたり蒸発していく。
宝くじで3億円の大金をつかんだ人でさえ、その金を有効に使い、生涯幸せに過ごせるかは、大いに疑問だ。カネの使い方を知らない人の場合は、ほとんどがかえって不幸になるだけだろう。
大金を目当てに群がってくる人間と、そうでない人間を区別することは、とてもむずかしい。カネがない人なら、その人のもとに集まってくる目的がカネでないことだけは確かだ。
一方、他人が稼いだカネや財産を奪う人が失うものがある。それは、自分に対する信頼だ。つまり、「自信」という大きな財産を失うことになる。
自分自身が額に汗して稼ぎ出したカネこそ、堂々と使うことができる。そのようにして得た金は、簡単に消費できないだけでなく、また新たなカネを生み出す原動力になる。悪銭身につかずという。逆に言えば、正直に働いて得た金だけが自分の基盤をつくるものになるのだ。
どんな悪党でも絶対奪えないものがある。それは…
ミッチャンのエセエッセー by 竹下光彦
(C) 2006 by Mitsuhiko Takeshita