大切なのは「国家の品格」より「個人の謙虚さ」
藤原正彦という数学の先生が書いた『国家の品格』という本がベストセラーになった。本が売れない時代に、どんな本でもジャンジャン売れてくれるのは喜ばしいことなのだが、この程度の内容の本がそんなに売れると聞くと、出版界のはじっこにいる人間としては、申し訳ない気持ちになる。
なぜなら、この本の目次を読むまでもなく、帯のうたい文句を読めば、何が書いてあるか、だいたい想像がつくからだ。不遜ないい方を承知でいえば、この本に書いてある程度のことなら、少しばかり教養のある人なら誰でも書ける。ただ、それを本にして出そうなどということは、「品格のある人」にはできないだけのことだ。
著者は数学の先生だけに、論理や推論においては何ひとつ間違っていない。しかし、その前提条件や事実認定が狂っていれば、どう正しく推論しても正しい答えが出るはずがないという見本のようなものといえる。
まず、「日本は品格のない国家に成り下がった」という命題ひとつとっても、そうは思わないという人が多数いることだろう。もっと厳密に言えば、「品格がない」という状態は、どのようなものなのかをしっかり定義しなければ論が先が進まないはずだ。
そうした前提の粗雑さに目をつぶったにしても、品格のある国家をめざすためには、武士道精神を再評価して世界に広めるべきだという短絡思考をされては、多少武道をたしなむ人間としても赤面の至りだ。
日本史で習った「武士の起源」は、平安時代に荘園を外敵から守るために組織された自警団とか暴力集団だったはず。そんな組織なら世界中のどこにでもあったわけで、少なくとも西欧の「騎士道」と比べて圧倒的に品格のあるものとはいえない。「任侠道を世界に広めれば、世界中が義理人情に厚くなる」という乱暴な議論とさして変わらない。
さらに調子づいて、「小学校から英語を教えることは、日本を滅ぼす最も確実な方法だ」とのたまうに至っては、「オイオイ、正気なのかい、この先生は」と思った人も多々あるはず。
小学校で英会話などを教えても、身につくはずがないから、まったく意味がない。そんな時間があったら、国語教育に時間を割くべきだとおっしゃる。つい、「おおせのとおり」といいたくなる素人受けのする議論だが、これも前提条件がまったくメチャクチャ。
外国語教育の専門家なら、誰も小学校で「英会話」を教えようなどとは考えていない。異文化を理解するための一環として、日本語にとっては「ノイズ」でしかないものにも、意味の伝達という役割をもった言語体系があることを、たとえ週1時間でも、感覚的に教え込むことがいかに大切か、この先生を含め、おおかたの人はほとんど理解していない。
母音には「アイウエオ」しかないと思いこんで育った人間が、母音だけでも十数個ある外国語がたくさんあることを知って愕然とする事実と、結果的にそれによって外国語の習得にどれだけの負荷がかかることになるのかなどは、教育現場の教師や外国語教育の専門家以外にわかるはずがない。
だから、「すぐに役立つようなものより、役に立たない基礎を教えるべき」という議論は、自己矛盾そのものだ。それとも、この先生は、因数分解の練習のほうが外国語の音になじませることより圧倒的に重要だと思いこんでいるのだろうか。だとしたら、そういうのを「我田引水」という。
この先生が一生懸命数学の研究に取り組んでいた間、外国語の教師や研究者は、外国語の教育について、同じように真剣に取り組んでいたはず。それぞれの専門家が努力して出して結論に対して、門外漢が軽々に口をはさむと、赤恥をかくことになる。外国語を本気で勉強して、外国と日本の文化の違いを広範囲に学べば、少なくともそうならないための謙虚さと寛大さが身につくことだけは、はっきりしている。
本を買ってしまった方に、出版界を代表してお詫びします。
(C) 2006 by Mitsuhiko Takeshita
ミッチャンのエセエッセー by 竹下光彦