死んではいけない
去年の暮れから今年の初めまでの短期間のうちに、ふたりの若い女性があいついで自殺した。ひとりは割腹自殺だったという。
亡くなったふたりのうち、ひとりの女性には、中学生のころに会ったことがある。かわいくて聡明な人だった。漫画家になるという夢を持っていた。文章も上手だった。
どちらも自殺の動機については聞かされていないが、愛情問題が絡んでいるのは間違いないだろう。仮に病気を苦にしたり、鬱病があったとしても、誰かを愛し、愛されている中での自殺はありえない。
どちらの女性にも共通する要素があった。ふたりとも、母子家庭で、多感な時期から父親の存在なしで育てられてきた環境だった。登校拒否になったことがあるのも共通している。
人間は肉体だけでは存在できない。肉のかたまりとしてそこにあるだけだ。母親が肉体を与え、育てたとしても、父親が子どもの魂に息吹を与えなければ人間として成長できない。どんなにダメ人間であっても、父親は「生きる力」と人生に対する信念を形成させるために不可欠なのだ。
オレには昔、真一という名前の義理の兄がいた。父親の先妻の子だった。腹違いの兄ということになる。小さいころからいつも一緒に生活していたので、本当の兄だと思って慕っていた。映画などによく連れて行ってもらった。
その兄が、三十歳の若さで自殺してしまった。父が亡くなってから二、三年後のことだ。失恋が原因だったと聞かされた。
母がよく嘆いていた。父が死ななければ、真一も死ぬことはなかったのにと。そのころはその意味がわからなかった。今ではよくわかる。
人生は戦いの連続だ。戦いである以上、負けることもある。でも、負けて醜態をさらしても、また立ち上がって戦う父親の姿を身近に見たとき、子どもは何を感じるだろうか。父の苦悩する姿の中にこそ、父の愛を感じるはずだ。
愛する人に裏切られようと、別れようと、試験に落ちようと、めそめそしたり、自ら死を選んではいけない。父はそれを身をもって教えてくれる教師であり、コーチだ。
オレは人生を駅伝のレースのようなものだと思っている。自分より先に走ってきたランナーである父母や祖父がよいポジションを与えてくれれば、楽にレースを展開できる。逆に、前の選手が遅れに遅れまくってきたら、どうがんばっても逆転はあり得ない。しかし、前のランナーが、足をけいれんさせながらも必死で走ってきたのと、途中で試合を放棄したように無気力な走りでやってきたのでは、えらい違いだ。
大切なことは、自分の与えられた区間を全力で走る抜くことだ。ポジションが悪ければ、かえって努力のし甲斐がある。がんばってタスキを渡せば、次の選手も必ずがんばってくれる。
自分が生まれてくるまでの間に、自分の誕生にかかわるどれだけ多くの人間ドラマがあったことだろう。それに思いを馳せれば、この世の中は憎しみや非情によって動かされているのではなく、多くの人の愛情や好意や熱意によって支えられていることがわかる。とても自ら命を絶つことなどできるはずがない。
自分の人生が楽なものだとしたら、それにどれほどの意味があるだろうか。つらいからこそ、苦しいからこそ、人生には意味がある。死にたくなるほど苦しいのは、人生の勝者になれかどうか、試されているのだ。
死にたいほど苦しいのは、試されているから
(C) 2006 by Mitsuhiko Takeshita
ミッチャンのエセエッセー by 竹下光彦