失恋は、すばらしい

  オレの人生は、失恋の連続だ。人を好きになっても、その愛が成就したことは数えるほどしかない。「日本失恋連盟」ができれば、その総裁に就任する資格があると確信している。
 では、それほど恋に破れていながら、人を愛することをやめないのはなぜだろうか。自問自答した結果、わかったことがある。もしオレが女性に生まれ変わって、今のオレと出会ったなら、絶対このオレを好きになるという確信がある。こんな男は、世界中探してもいるはずがないという信念がある。オレは自分自身が好きでしょうがないのだ。つまり、他人を愛するエネルギーの源は、自分自身への愛そのものであることに気づいた。
 求愛という行動は、自分自身をアピールし、売り込む行為にほかならない。セールスマンの営業活動と同じだ。もし、自分の売る商品に惚れ込んでいなかったら、そのセールスマンは売り込みに成功できるだろうか。自分でも買う気の起きない商品の販売に情熱を燃やせるだろうか。それでは、ウソをついていることになるではないか。
 激しく人を愛して傷ついた人の多くは、もう二度と人を愛することをやめてしまう。深く傷ついてしまう。でも、それではいけない。失恋とは、自分という商品の売り込みができなかっただけで、相手にその真価が伝わらなかっただけのことだ。
 もういちど、自分自身を見つめ直してみよう。自分とは、そんなに価値のない存在だろうか。いったい、それを判断している主体は誰なのだろう。自分とは、たったひとりの存在なのだろうか。
 よくよく考えてみると、自分とは、多くの「人」の意識の集合体であることに気づく。自分という存在は、ある日突然できたのではなく、長い年月をかけ、いろいろな人が努力し、ようやく出来上がった芸術品にほかならない。その芸術品にはさまざまな価値が存在する。しかもその価値は日々刻々と変化している。バージョンアップしている。それには自分でも気づいていないことが多い。他人に指摘され、啓発されてようやく気づくのだ。
 自分には何の価値もないと思っている人に尋ねよう。キミは、美術館を訪れて、絵を眺めたとき、すぐにその価値を全部見いだすことができるだろうか。まったく何の価値もわからず、スタスタ通り過ぎていくことのほうが多いのではないだろうか。
 人間の価値もそれと同じだ。価値のわからない人には、単なるガラクタとしか映らない。それが有名な作家の作品だと言われれば、その気になって鑑賞し、急にみんながもてはやすようになる。ホンモノの芸術品ほど、同時代の大衆には評価されなかった例が腐るほどあるではないか。
 自分自身に対する評価もそれと同じこと。価値判断の基準を、同世代の一般大衆と同じもので見れば、自分は大した価値もない人間と見えるかもしれない。しかし、自分の奥に秘められた能力や可能性、そして燃えたぎる情熱は、自分でも気づいていないことが多い。もちろん、他人などにわかるはずがない。自分を嫌う人がいるとすれば、それと同じ数だけ、自分を好きだという人が必ずいる。
 その可能性に気づき、それを信じる人間にとっては、自分を評価できない人こそボンクラに見えてくる。それで上等ということになる。むしろ、そう簡単に好きになってもらっては困る。真価のわからない人を説得するヒマがあったら、わかってくれる人に売り込むことのほうが大切ではないか。自分を安売りする必要はない。悪徳商法に走る必要もない。自分を生みだし、育ててくれた人々と、Something Greatに感謝しよう。
 営業は、断られたときから始まるという。断られないなら、営業マンは必要でなくなる。失恋は、営業マンが断られたのと同じこと。そこからがスタート。断られた挫折の経験が多ければ多いほど、営業マンは人間的にも成長し、もっと充実した営業活動ができるようになる。だから心の奥底から言おう。「失恋は、すばらしい」と。

自分という商品の可能性を信じよう

(C) 2006 by Mitsuhiko Takeshita